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岩谷神楽保存会 会長 石井 誠さん

岩谷地域の伝承文化を伝え残すために

安佐南区緑井にある岩谷地区。そこに伝わる「岩谷神楽(いわやかぐら)」は、広島市域の代表的な神楽である「安芸十二神祇神楽」の伝統を受け継ぐ希少な民俗文化財。幾度も絶えかけた地域の文化を受け継ぎ、その保存と継承に努める石井さんに「岩谷神楽」の歴史と魅力、そして活動に関わる思いを聞きました。

岩谷神楽とはどのような歴史を持つのですか?

毘沙門天の参道に沿って開けた谷沿いの集落が岩谷地区です。今は緑井三丁目という地名に統合されましたが、この辺りは「中組」「八敷」「大下」「日吉」「松原」「上組」といった集落名が残る古くからの農村地域で「岩谷」はその一つ。岩谷神楽は、地区の氏神である「石屋(いしや)神社」への奉納神楽です。「岩谷」と「石屋」、今では漢字も読み方も異なりますが、元は同じ「いわや」だったのではないでしょうか。
岩谷神楽は、私が物心ついた頃から既に祖父の代に伝わっており、その起源は明らかではなかったのですが、2020年に地域の家の蔵からちょっとした発見がありました。神楽の演目の一つ「五郎舞」の舞詞(まいことば)を記録した古い文書が出てきたのです。それに記された日付が「明治12年」だったので、少なくともその時代には存在していた証しとなりました。江戸時代末期には伝わっていたのかもしれません。

▲岩谷地域の古地図
毘沙門天(中央山腹)参道沿いに、田畑を開いた集落だったことがわかる。右下の神社が石屋神社
▲地域の旧家の蔵から見つかった「五郎舞」の舞詞を記した文書
「明治十二年七月」の書付が岩谷神楽の歴史を立証するものに

岩谷神楽の特徴は?

広島市、廿日市市、大竹市など瀬戸内沿岸部に伝わる「安芸十二神祇神楽」を受け継ぎます。芸北地域にあった古い神楽が、江戸時代の終わりから明治にかけてこの地域に伝わったと言われ、近年は華やかな演出も多い石見神楽や県北の神楽と比較すると、粛々とした神事としての趣を色濃く残す神楽となります。
岩谷の周辺でも、かつてはそれぞれの地区の氏神の祭りで十二神祇神楽を舞っていましたが、時代の変化により多くが消滅し、緑井地区では岩谷神楽を残すのみになりました。地域の先人が継承の努力を重ねてきた賜物です。

▲関の面と大羽織
「ザイ」と言われる宝の杖を持つと総重量は20kgにも及ぶ

神楽と共に今日まで受け継がれたものに、十二神祇の代表的な舞である「関(せき)」の面と大羽織があります。「荒平(あらひら)」とも呼ばれる「関」は、鬼でありながら秋田のなまはげのような邪を払い福を授ける異形の来訪神で、各地でその姿も異なります。 岩谷に残されているのは、赤、黒、金で彩色された木彫りの面と、背面に金糸銀糸をふんだんに用いて龍、虎、鷲と狒々(ひひ)を縫い込んだ大羽織。羽織は大正2年(1913年)に10円で製作されたと衣装櫃に記されており、今では技術的にも金額的にも再現が難しい貴重なものです。神楽の大会などに参加すると、他の団体の方からも「これは、すごいですね」と感嘆されます。

▲衣装とともに受け継がれる衣装櫃
1世紀を越えて受け継がれた衣装の更新も今後の課題

岩谷神楽はいつどこで舞われますか?

石屋神社の秋季大祭は、旧暦9月29日(あとくんち)でしたが、近年は10月終わりの土・日曜を本祭日にするようになりました。神楽は前夜祭(よごろ)に奉納するため、10月終わりの土曜の夜に開演します。以前は木造の組み立て式の神楽殿がありましたが、老朽化と作業負担減のために、現在は単管パイプを使って組み立てています。
秋季大祭では、短めに簡略化した演目もあるものの、「神降ろしの舞」に始まり、締めの「関の舞」まで十二神祇を通しで、夜6時半頃から約2時間かけて舞います。
そのほか、安佐南区文化の祭典「あさみなみ伝統神楽祭」、八木梅林公園の梅林春こい祭、宇那木神社の七五三などでもいくつかの演目を披露することがあります。出演予定は岩谷神楽保存会のHPでも告知しています。また動画もYouTubeなどで公開されていますので、「岩谷神楽」で検索してご視聴ください。

岩谷神楽の十二神祇神楽

  1. 神降ろしの舞(かみおろしのまい)
  2. 煤掃きの舞(すすはきのまい)
  3. 弊の舞(へいのまい)
  4. 刀舞(かたなまい)
  5. 旗の舞(はたのまい)
  6. 鬼づきの舞(きづきのまい)
  7. 大鬼・小鬼の舞(おおおに・こおにのまい)
  8. つゆはらいの舞(つゆはらいのまい)
  9. 火もちの舞(ひもちのまい)
  10. 姫の舞(ひめのまい)
  11. 十一岩戸の舞(いわとのまい)
  12. 十二関の舞と関太夫(せきのまいとせきだゆう)
▲岩戸の舞
▲関の舞と関太夫

保存会としてどのような活動を続けてこられましたか?

岩谷神楽保存会の組織としての誕生は、第二次世界大戦後、地域住民の有志による神楽復活への機運と熱意の高まった時代に遡ります。当時は子ども会も活発で、小学生を中心とした舞手とそれを指導する大人たちが、神楽奉納の1か月前から毎晩のように古い木造の岩谷会館(現在の岩谷消防車庫の場所)に集まり、練習を行っていました。
私自身も子どもの頃から当たり前のように神楽に触れ、たまたまずっと地域に住み続けてきたので関わってきましたが、時代が変わり、周辺に住宅地が増えて地域性も変わり、子ども会は縮小し、指導者は高齢化。正直、継続するのはもう難しいと感じたこともありました。
けれども一度絶やしてしまうと、取り戻すことは難しくなります。私に関の舞を引き継いでくれた松岡茂氏をはじめ、次世代へ神楽を継承のするために尽力した先達たちの熱意を無駄にはできないとの思いで保存会の会長を引き受け、時代に合った存続の道を探るように。男子のみの舞手を女子にも広げ、地域に奏楽(太鼓と笛)の後継者も生まれました。
心に置いている言葉は「不易流行」。伝統を大切にしながらも、新しいものを取り入れ、岩谷神楽の本質を次代に伝え残していきたいと考えています。

▲3年に一度の神楽奉納にして、継続を図っていた2012年の記事
花火(吹き火・傘火)も復活させ、舞と舞の合間を賑やかに盛り上げた。奉納は継承しやすさから現在は毎年開催としている

最後に、今後の展望などを聞かせてください。

関の舞は20kgもある衣装を付けて踊り、最後はテンポも早くなります。しかも正式な舞はもっと長く、舞い終わった後は酸欠と疲労で倒れ込みそうになるほどです。私は8代目として関を20年務めましたが、体力的に限界を感じて次世代に継承し、舞も短縮しました。現在、関は10代目に継承されましたが、指導者や舞手は次世代へいつ引き継ぐかを考えておかなければなりません。私が関の舞を仕込まれた時には厳しい指導も受けましたが、同じようなやり方ではついて来られない人も出るので、先に述べた「不易流行」の精神で時代に合った継承を目指しています。

教えられたこと、独自に調べたことを全て口で伝えるのも難しいと考えていたので、祭りや神楽ができなかったコロナ禍の期間に、岩谷神楽のこれまでの歴史をHPや冊子にまとめました。口で言い過ぎずとも、必要になったら紐解いてもらえる資料ができたことで、私の会長としての責務を一つ果たせた気がしています。これからは若い人たちがやりやすいように、岩谷神楽を受け継いでもらえたら本望です。若い人たちには「最近、石井さんがあまり言わなくなったので寂しい」と言われることもありますけど(笑)。

岩谷神楽保存会の拠点にしている集会所でお話を聞かせてくれた石井さん
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    伝統継承は人、物、心の一つでも欠かせば叶うことではありません。地域コミュニティの活性化に役立てることを一つの目的として活動を継続し、多くの人たちが受け継いでくれた歴史と文化のバトンが先の世代まで繋がっていくことを祈っています。舞手とサポーターも募集していますので、興味がある方はぜひ参加、協力をお願い致します。

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石井 誠(いしい まこと)

石井 誠(いしい まこと)

岩谷神楽保存会 会長
1957年 安佐南区緑井の岩谷地区生まれ。
高校の社会科教員を務めながら岩谷神楽に関わり、県外に赴任中も祭りの時は帰省して手伝っていた。退職後も地域への貢献を続け、保存会以外にも、広島市豪雨災害伝承館の職員、安佐南区の保護司、民生委員などを務める。

【岩谷神楽保存会】
https://iwaya-kagura.jp/wp/

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