

どうして医者になろうと思ったのですか?
私は小さいころからよく風邪をひく子どもでした。それでも病院に行くのが怖くて、高熱が出ていても絶対に病院に行きたくないと駄々をこねて、親に引きずられながら病院に連れて行かれていました。それが、小学生のころ、祖母が病気になり、それまでとても元気だった祖母が暗い部屋の中でベッドに横になってしんどそうにしている姿を見て、何もできない自分が悔しくて悲しくて、「祖母の病気を治したい。医者になりたい」と思ったのがきっかけでした。その後、保育士、看護師、弁護士にもなりたくて迷ったのですが、最終的に高校2年生のときに医師になろうと決意しました。両親に言うと、「あんなに病院嫌いだった子が医者になりたいと言い出した!」ととてもびっくりされました(笑)。肝心の祖母には、「女の子が医者になんてなったら、結婚できないからやめなさい」と反対されました(笑)。
小児科を専門にしたきっかけはなんですか?
実はもともと外科医になりたかったのです。ブラックジャックの漫画を読んで、「ブラックジャックみたいな名医になって、手術を待っているたくさんの人たちを救いたい!」と思ったのです(笑)。それで、大学2~3年生の頃にあちこちの病院へ見学に行って、外科の手術などを見せてもらいました。ただ、そのときにいろんな外科の先生方にもお会いしたのですが、ちょっと怖い感じの先生が多くて…(笑)私の思い描いている医師像とはちょっと違うなと思ってしまいました。そこで外科医を目指すのをやめて、何を専門にするか迷っていました。
大学4年生のときに、小児科の授業のときに、先輩方が入ってこられ、「夏休みに小児糖尿病キャンプがあるので、ボランティアで参加してくれる人を募集しています」とのことでした。興味があったので参加してみたのですが、5日間のキャンプが自分でもびっくりするくらい楽しくて楽しくて、このときに自分は子どもが好きなのだということに気づきました。そして、子どもたちが懸命に自分の病気と向き合い、血糖測定やインスリンの自己注射をしている姿を見て、子どもたちのひたむきさ、純粋さに心を奪われ、子どもたちに寄り添う小児科医になることを決意しました。
小児科の中でも神経を専門にした理由を教えて下さい
大学卒業後、倉敷中央病院の小児科で初期研修・後期研修を受けました。そこは大きい総合病院なので、けいれんを起こした患者さんがよく救急外来に運ばれてきました。ですが、当時小児神経専門の先生がおらず、脳波をとっても誰も判読ができず、近くの病院の小児神経専門の先生に判読してもらい、治療方針を相談しているような状態でした。その小児神経専門の先生が脳波を読まれ、的確な治療方針を出される姿に憧れ、自分でも脳波が読めるようになりたいと思うようになりました。そのようなとき、岡山大学病院の小児神経科に半年間短期留学できる機会をいただき、脳波の判読も含め難治てんかんの患者さんをたくさん担当させていただきました。何年間もてんかん発作が止まらなかった患者さんが、入院して、これまでの治療歴、発作歴を整理して、長時間脳波検査で発作のタイプが判明し、それに合った抗てんかん薬を調節することによってピタッと発作が止まることを経験し、てんかん診療の奥深さを教えていただきました。その後、岡山大学小児神経科に入局し、とても苦労しましたがWest症候群(点頭てんかん)の臨床研究で学位も取得させていただきました。

どのようなクリニックを目指したいですか?
自分のように病院が怖い、病院が嫌いなお子さまでも、楽しく通うことのできる、お子さま自身が行きたいと思ってもらえるようなクリニックにしたいと思い、内装をいろいろ工夫しました。また親御さまが困ったときに気軽になんでも相談してもらえる、一番身近なクリニックになりたいと思っています。さらに、働く親御さまを応援したいとの気持ちで、病児保育室も併設しました。海田町では初めての病児保育室ですので、皆さまのお役に立てるよう、スタッフみんなで大事なお子さまの保育および診療をさせていただきます。これからどうぞよろしくお願いいたします。





